いつの世にも人生を幸運に導く要素というものはいくつかあろうが、生まれつき備わったさだめ、そして家系、家族、仕事、金、 あるいは友情や愛情、そしてまた良き師との出会いもそのひとつではないだろうか。
　私はインドに若い頃行き、結果的にはそこで十年を過ごしてしまったのだが、正直言ってあの国を全面的に肯定するところまではいかなかった。 しかしそこに自分の学ぶべき物があり、そして心より慕う事の出来る幾つかの人物に出会えたのは、私の生きていく道程の中で尽きる事のない 泉のように私を潤わせてくれる。
　私の学んで来たものはインド伝統芸能である。それより察していかに人間関係の煩雑な世界であろうかと想像できるものである。
　極めて安直な言い方をすれば、私自身は反動的な人間であり、それが伝統芸能の世界に身を投じた事は矛盾であり、それ以上に無知であった。
　当然な事ながら伝統芸能の師弟関係、そして家系制度というものはきわめて厳しく、また私などからみてもかなり横暴なところがあると思う。 それはまた多くの人々が身をもって体験した事であり、それに準ずるものもあれば反発するものもある。
　インドの伝統芸能に関して言えば、入門時の入門儀式を始め、細かいしきたりがあるが、それを強い絆と考えるものもあれば 束縛だと考えるものもいる。私の場合、人格的にひとりの人間、あるいは概念に全面的に忠誠をつくす事ができず、 かえって精神的な負担を感ずるように生まれついているようで、ひとりの先生についても（師とはあえて呼ばないが）それ以上の堺を越えたいとは思わなかった。
　現在、私は東京で音楽教室を開き、今は教える方の立場に居るが正直な話、伝統とか家系、流派、免状、学習方法など一方的に教える立場の有利な 条件のみで構成されているように思う。人間の本質は弱肉強食の世界であり、より良いものを創り出した方が勝ちだと私は単純に結論を出す。 教えられる方が教える方よりも進歩していっても、自己の便宜の為にその足を引っぱってはいけない。
　そういう前置き、そして私の師について語れば、私は何の制約も義理も感じずに自分の師を心より慕っていると言い切る事ができるようになった。
　私の師シュレーシュ・ミシュラ（Suresh Misra）は音楽家の家系出身ではなかったが若い頃、志をたて音楽の道に入った。 しかし師弟関係はきわめて厳しく数年間掃除をやらされるだけだった。直接手をとって教えてくれる訳ではないので、 遠くより盗み聴きして覚えるくらいしか方法はなかったわけだ。またその流派に伝わる奥義だとか秘伝だとか言うものも伝授される対象にはならなかった。 それは彼が門外漢という理由だけだったが-。
　そうして彼は一人前の演奏家になったが、我々生徒に対する態度も極めて率直だ。
「私は自分が苦労して体得してきたものの為にあえて次の世代に同じ苦労を強いようとは思わない。私は何も隠さないから、 君達が私から得るものがあれば何でも持って行きなさい。そして私から盗めるものがあれば、それによって自分を進歩させなさい。」
　私の師は高名でもずばぬけて秀れた演奏家でもないが、育まれてゆく新しい生命に対して素朴なやさしさを持っている。
　レッスンの時、我々が努力と情熱を持ってより多くのものを師から吸収しようとする時、彼はまるで自分の事のように喜んでくれるし、 これでもか！これでもか！と多くの手のうちを見せてくれる。そしてある程度進んだ生徒に対しては師自ら、 生徒との時間を楽しんでいるように見かけられる。
　私の師は自分自身をさほど偉大な人間とは思ってないらしく自分も自ら毎日を修練して進歩していくものだと考えている。 結局我々の絆というものは率直な愛情に支えられた信頼関係なのだと思う。だからこそ私のような一般常識にあまり協調性のない若僧でも、 自分のやっていきたいと思った音楽に永い年月を費やす事ができたし、何よりもインドという他人の国で最低限の礼儀を失わずに 過ごせたと思う。
　音楽の分野では残酷な事ながら、本人がどんなに好きでも個々の才能というものは、はっきりと差が出るものである。 ものを創るという行為には豊富な愛情が必要だし、音楽とはまたその愛をいかようにでも彩ってくれるものである。 私の師がそうであったように私もまたより多くの人々にその喜びを知って欲しいと思っている。 我々はその新しい芽に水をかけてあげ、小さな囲いを作ってやれるだけだ。
　インド伝統芸能には九つの基本的な感情が定められているが私の師に言わせるとすべてがアノンド（喜び）だと言う。 それはどんなに悲しい暗い曲を演奏していても、それは自分が音楽を通してそれを表現できる喜びであると言う。
　そういう人に出会い、私を永く導いてくれる師に巡り会えたという事も、私は自分の人生の運のひとつだと考える日々である。

　インドの女性はみな大変な美人だとよく話題に上がるが、これはちょっとした勘違いである。
日本人から見れば顔のひとつひとつの造型が大きいからそれが整っていれば、確かに派手目な美人に写る。 そうでない人は　-その形や配置が多少、不適格ならば-　それぞれの部分が派手な分だけ美人という印象から遠のいてしまう。 それに比べれば日本人の不美人度など愛嬌のあるものである。

　アーリヤ系の人種におしなべて言える事は「十代までは天使のように麗しい乙女」というのがあらかたの意見である。 二十代を過ぎるとブクブクと肥る。肌は粗くなる。 髭は濃くなると妖精を捕らえたはずが、そのうち百年の恋もいっぺんに覚めるという事を覚悟していなくてはならない。 もちろん例外も沢山ある事を明記しておかなくてはならないが。
　日本娘の「花の命」がほかよりも永いと贔屓目に思ってしまう。
　インドの美人の三大要素　-色が白い。髪が黒くて長い。肥っている-　。 本来土着の人種であったドラビダ族は色が黒く小柄であり、美人の条件にあまりあてはまらない。 やはり征服民族であるアーリヤ系の理念の押し付けか。
前記の三大要素さえ満たしていれば顔立ち、性格、人間性はあまり問われないらしい。 ブクブクと肥って横着でなまいきな女もインドに行けばもてるかもしれない。

　インドにはさまざまな人種、民族が存在する。アーリヤ系、ドラビダ系、モンゴル系、 そしてそれにも入らない数百とも数千とも言われる少数民族。
　現代はメジャーであるアーリヤ系の文明文化が主流となり、少数民族と雖も宗教、社会観念、風習は彼等の文化的影響を受け、 価値観が普遍化して来た。
美人の条件もしかりである。
もっとも影響を受ける以前は、それぞれの民族にそれぞれ独自の自意識があったのだろうけれど、 ヒンディー映画の女優に代表される多少肥りぎみの目鼻立ちのくっきりとした美人を誰もが美の基準とするようになった。

　ベンガル地方にサンタル族という土着の少数民族がいる。 人類学的にはオウストロエイジアというものに属するらしい。 なんとなくチベット系のように思ってしまうが、どうみても我々の思い描くところのモンゴル系とは随分と印象が異なる。 黒人的な要素が含まれているのだろうか。
　しかし彼等の中でも美人の条件は大柄で体格がよく色白の女という事になる。 私から見ればみんな黒いのに、彼等の中では「あの人は私よりも黒い」と言って少しでも白い方が優越感を持つらしい。
　私の済んでいた町の郊外に、彼等は小さな集落を作り、独自の言語と文化を大切にして暮らしていた。 もっとも町に出て来る時にはベンガル語をしゃべりベンガル風の衣装を纏うのだが、 自分の村に居る時には彼等の生活習慣に戻る。とはいえ、ベンガル風を好む若者も増えて来た。
　サンタルの女は美人というよりも愛くるしい。小柄で細身の体つきだが、しなやかである。 胸と尻は丸くて豊かである。若くたおやかな娘を見ていると不思議な官能美を秘めている。

　私はある時、ひとりのサンタル娘と出会った。
草原を美しい姿勢で歩くその姿は、太陽のもとで妖しげに輝いていた。 肉体は黒曜石のように光を放っていたのである。 物静かで控えめな態度、零れ落ちる笑顔、豊潤な肉体、銀の鈴のような声、 側にいると心はときめき安堵感を覚えるような女だった。
私はいっぺんに恋に落ちたが、それは私が多情だったからではない。 それほど綺羅めく女がこの世に存在するという証である。
　しかしそれは許されぬ想いであった。異邦人の私とカースト外のサンタル人が、あの国で一緒になれるはずがない。

　本来インド文化というものは性や肉体に対しておおらかであった。 エローラやアジャンタ、カジュラホやコナラックなどに残された壁画や彫刻がそれを物語る。 しかし西洋キリスト教的な社会観が浸透すると、それらはいかがわしいもの、野蛮なものとして隠蔽されるようになる。 褐色の美人達は神話と伝説の中にしか存在しなくなる。
　あの豊満な肉体を誇った女神達はいかにも誇張されたように思えるが、 実際に存在する事を知った。それはあのサンタルの娘と出会う事によって実感する。
　ここではインドの女性達の地位や社会性、生活習慣を語るつもりはない。
アングルやルノワールのように純粋にその美に感動していたい。 女を一個の造型物と見なすのに批判的な風潮となったが、 ベンガルの草原を風のように歩く美しい姿に出会ったならば、しなやかで官能的な輝きに心を奪われるであろう。
　自然の風景の中に見事に調和するたたずまいと躍動感、それは何もインドに限らず、 世界中どこでもその土地の自然に育まれた独自の美がある。
　サンタルの女はベンガルの風景によく合う。
ゆっくりと旅をすれば琥珀の蠱惑を身に纏った乙女が大地に舞っている姿に出会うかもしれない。

　インド哲学は本来「音の本質」というものに関心を示し、インド音楽と深い関係を持っている。 特にヨガやタントラでは、この現象的な世界において絶対的な創造物である太古からの音、 ナーダ・ブラーマン（Nada Brahman）があったと信じられている。 ナーダとは最も緻密な要素で構成された宇宙の音、 そしてブラーマンの創造する力のエネルギーはまた、 ナーダ（音）あるいはシャブダ（Sabda 言葉/音声）という意味付けもされる。
　ヒンドゥー教の概念によれば、音というものは二種類あると考えられる。 ひとつはアナハタ・ナーダ（Anahata Nada 非物理的な音）でこれは単に五感に感じる音ではなく、 精神や魂を通じて心に響き渡る音という性質のものである。 ふたつめはアハタ・ナーダ（Ahata Nada 物理的な音）であり、 アナハタ・ナーダの性質と非常に意味を異にするものである。
　このように、インド音楽の起源は深く精神的でありまた宗教的である。 また、ほとんどの神や女神は音楽やリズムの性質に基づいて、何からの形で象徴的に関わっている。 創造の原動力であるブラーマは、ビーナーを手にしたサラスワティーとして崇められているし、 シヴァはダマール（太鼓の一種）と共に踊り、クリシュナは彼の崇拝者を美しい竹笛で魅了する。 このように全ての神性の具象化には、伝統的な歌や踊りで彩りがなされてきた。
　インド音楽の起源はおよそ四千年前のサーマヴェーダ讃歌の時代にさかのぼることができる。 発生の基本的なアイディアあるいは音楽的な音というものは、 インド音楽の歴史のきわめて初期の頃に僧侶達によって完成されており、 その本質は今でもあまり変化がない。
　インドでは芸術としての音楽は少なくとも三千年前に存在している。 今日の古典音楽は、代々の音楽家達によって永い時間をかけて口承で受け継がれ、 その間に磨きあげられ発展して来た。古代からの伝統の流れの直系である。 この音楽は真に我々の歴史の一部をなし、現在の人々がわかちあうことのできないはるか昔の 叡智や一連の叙情的体験を今だかつて我々の時代にもたらしてくれるものである。
　最も初期の頃より、宗教や大衆や様々な民族や宮廷などを含むいろいろな流れの中で、 インド音楽は育ってきたものである。 宗教的なものの例として例えばプラバンダ（Prabandha）があるが、詩的な構成をもつこの歌は、 既存のメロディーを一定のリズムサイクルに当てはめたものである。
　十二世紀の頃、北インド地方はペルシャからのスーフィー哲学や斬新な旋律の影響を受け始めた。 パターン地方の王アラウッディン・キルジ（Alauddin Khilji）の宮中では、 アミール・クスロー（Amir Khusrau）の貢献により、音楽は明確で新しい方向性を持つようになった。
　十三世紀以降、インド音楽は二つの流れに分かれてゆき、そのひとつはここで語られている ヒンドスタニー音楽（北インド音楽）、そしてもうひとつはカルナータカ（Karnatak 南インド音楽）である。
双方の流れは基本的には同じ原則に基づいているが、音楽的にはその意図とエートスはかなり異なっている。
　前述したプラバンダの流れから発した形式で、十五世紀から十六世紀にかけて北インドで大いに花開いたものが、 ドゥルバパタ（dhruvapada）あるいはドゥルパッド（dhrupad）である。 すぐれた王侯貴族、例えばゴワリオール（Gwalior）のマン・シンハ・トーマル（Man Singh Tomar）や ムガール王朝のアクバル大帝（Akbar）の擁護のもとで、ドゥルパッドはその音楽的な完成度のピークに達する。
　ドゥルパッドの形式は極めて堅固で精密な構成から成り立ち、ヒンディー語の一派であるブラジャ語（Braja）で書かれており、 その内容は神や英雄達に対する讃歌が一般的である。
　ドゥルパッドの歌唱法は最初アーラーパ（alaapa）から始まり、徐々にテンポを増していき、 ラーガの持ち味を生かしていくものである。 次に画面の太鼓の伴奏により一定のリズムサイクルを維持しながら曲を発展していく。 メロディーの動きは正確な音階音と幅の広いグリッサンドによって発展していき、 不必要な装飾音は言葉の持つ正当な意味を妨げるものとしてあまり歓迎されない。 この形式は拡張高い貴重なものとして現在まで受け継がれてきている。
　この形式のバリエーションとしてダマール（dhamar）というジャンルがある。 これは収穫と色彩にあふれたホーリー祭におけるクリシュナ神と恋人達の愛を唄ったものである。 ドゥルパッドとダマールは古くからの古典形式であるが、これは近代における大衆歌謡の原型となり今日に至るものである。
　今日において最も広く公演だれている古典の形式はケヤール（khayal）である。 ケヤールとは本来ペルシャ語でアイディアとかイメージの流れという意味を含むものであった。 ケヤールはドゥルパッドのすぐ後に現れてきたが、その独自の形態を成したのは十八世紀初頭である。
ケヤールはドゥルパッドよりも個人の感情や表現を発揮できる部分をより多く許されており、 デリケートな表現を目的とするものである。よってケヤールには個々の感性がより重要とされる。 定められた歌詞を歌うというよりも、むしろ歌詞の中にある感情を表現する方向により重点をおく。
　しかしこれはセミクラシックの形式であるトゥムリ（thumri）においてはあてはならない。 アワダ地方のワジッド・アリ・シャー（Wajid Ali Shah）のもとで十九世紀の中頃に発展したトゥムリは、 常にロマンティックな内容を持っており、そのテーマや愛や憧れを主としたものである。 クリシュナが幼少年期を過ごしたといわれるその地方の言葉が歌詞として使用されている。 その点でトゥムリは言葉の意味をも伝達するという重要視されている。 そしてまた優れた音楽家は、一つの歌詞を百通りもの方法で表現することもできる。
　ヒンドスタニー音楽の簡単な説明を終えたところで、次に音楽そのものの意図や主なる概念について述べたいと思う。
　伝統的なインド音楽は、最初に自己の内面にある精神的なもの、 つまり自己の存在やその周りにある様々なものを含めた世界観というものを、音を通して発見するところから始まる。 音楽的な伝統は、多様さや表面的な技術を探すことよりも、その中にある深さを求めるよう音楽家を常に戒める。
　主音（Shadaja）は音の基本であり、不動なるものの象徴である。 シャダジャの言語的な意味は、「6＜音＞から成り立つもの」といわれる。 またその主音を明確に示し補助するために、タンプーラと呼ばれるドローン効果の役目をする弦楽器が不可欠のものとなる。 タンプーラの効果により声楽でも楽器でも継続した旋律を奏でることができ、 また主音を基盤として発展した旋律は主音に対して常にその距離を確認できる。 それ故に、安定し支配的な音の中心核であるシャダジャは、旋律の流れの中で明確な位置を占め、 全体の構成の骨組みとなるものである。このように旋律線は主音を離れて、また戻ってくることによって、 一連の緊張感と緩和感を向後に作り出して行く。
　インド音楽家は激しい修行により類い希なる技術とコントロールを身につけるものだが、 その努力の主たる目的は単に美しい音を追求することではなく、ほとんど無限の音の世界における可能性を開発することである。 物理的な音というものは（理想的な意味において）単に表現の媒介であり、最終的な目的ではない。 音楽家にとって自己の肉体とは詩人にとっての筆記用具と同じものである。 聴衆は物理的な音を聞いて音楽を楽しむよりも、演奏者の意識の昂揚度に共鳴を示すものである。 尊敬される音楽家の幾人かは70歳代であることからも分かるように、インドの聴衆は外的な音楽の完璧さにさほど関心を示さない。 彼らの名誉はその体験の真理の中にあり、だからこそ、その声は表面的な作為を失ってしまったかもしれないが、 純粋な熱意は今だ輝き、聴衆はそこに注目し、その意志をくみ取ろうとする。
　人間の声は最高の楽器であり、インド音楽は様々なボーカルスタイルを生み出してきた。 ほとんどの弦楽器と管楽器は人声を模倣している。しかしインド音楽の声楽は特に人為的な発声法を必要としない。 　ラーガ（raga）はインド音楽において最も重要な概念である。 サンスクリット語の語源では「情熱」や「色彩」、あるいは「人の心を染める何らかの要素」という意味あいを持つ。 奏者は与えられたラーガに基づき何らかの音楽的雰囲気をかもしだすことを求められている。 それぞれのラーガはオクターブの中で五つ以上の音で構成され、メロディーの上昇下降において厳密な規制がある。 またラーガは時間と季節に密接な関係を持ち、人間と自然の成り立ちをラーガによって定義付けようとする。
　例えばラーガ・ラリット（Lalit）は夜明け前の時間に演奏で、闇と光が交叉する雰囲気を表現しようとする。 バイラビ（Bhairavi）やトリー（Todi）のようなラーガは朝の祈りや瞑想の雰囲気に合うようになっている。 また日が昇り陽が強くなると、もっと明るい感じのラーガ、ジャウンプリ（Jaunpuri）やビラワール（Bilawal）等が登場してくる。 昼頃には、陽の光にあふれ緑の木立に輝くようなサーラング（Sarang）系のラーガが主体となる。 午後になれば太陽の活動はピークに達し、ムルターニ（Multani）やパトディープ（Patdeep）等の ラーガがこの時間帯の主なるラーガになる。
　そして夕方になれば静かに落ち着いた感じのラーガ、カリヤーン（Kalyan）系のメロディーが好まれるようになる。 また夕方から深夜にかけては叙情的でロマンチックなラーガ、ディッシュ（Des）、ティラング（Tilang）、 カマージ（Khamaj）等が主体となり、深夜から夜明け前の時間帯には神秘的なダルバリカナーラ（Darbari Kanhara）や マルコーシュ（Malkaus）がその主流となる。 加えて、ラーガの中には雨期や春やまたホーリー祭等の季節に密接に関係したものもある。 ラーガの数は数千にものぼるが、今日ではおよそ百くらいのラーガが実際に演奏される程度である。 それぞれのラーガは特徴あるフレーズを持っていて、聴衆はそのフレーズの中から作り出される雰囲気が如何なるものになるかを 期待するわけである。単に音の羅列による旋律パターンは、それ自体あまり意味をなさないと思われる。 時には全く異なるラーガが同じ音の動きをすることがあるが、全体の流れからみると、 音の表現としてそれぞれを区別できるものである。
　インド音楽では音階音を切り離されたものであるとは考えず、それらの音の間はスロープ状に継続しているものとする。 それ故に、完璧に表記できる楽譜はまだ存在しない。また音階は半音や四分の一音で動く場合が多いので、 鍵盤楽器による演奏は適していないと思われる。
　例えばインド音楽を通して描かれているものは、その文化に関わっている人にとっては不可解なものではないが、 そうでない人々にとってその鑑賞の手引きがない場合でも、優れた音楽家はその雰囲気を読み取って、 いかにして聴衆の心を開き共鳴させ、彼等を音楽の美の部分にリードしていくかを考える。
　ドゥルパッド、ケヤール、トゥムリ等はその広い即興性のために、西洋的な意味においてコンポジションを何回か演奏するとき、 それぞれは少しづつ異なってくる場合があるが、本流となっているものは同じである。 このようにコンポジションが定型のものであると考えるならば、インド音楽には厳密な意味のコンポジションは存在しない。
バンディシュ（babdish既成のメロディーパターン）は、ターラ（tala）と呼ばれる一定のリズムパターンの伴奏によって演奏される。 それは一定の拍子のサイクルであるが、その内の区切り方は均等なものもあればそうでないものもある。 そのターラが演奏中メロディパターンの伴奏として絶え間なく繰り返されている。 メロディーがシャダジャを基本として発展していくように、ターラの場合はサム（sam）が拍子の中心となる。 サムはターラの第一アクセントと考えればよいわけで、これを強調するためにいろいろなテクニックが用いられる。 またサムの反対に位置するものがカーリー（khali）と呼ばれるポイントで、 ここよりリズムサイクルはサムに向かって再び登りつめていく。
　サムはリズムパターンの始まりでもあり終わりでもあり、メロディーパターンはその上昇感と共に、 リズムパターンに合わせ、メロディーとリズムの合致点であるサムに再びかえって来る。 このように何度も周期を繰り返し、緊張と緩和を高めていく音楽が、またヒンドスタニー音楽の特徴でもある。
　実際の演奏会では、歌手は最初に主音であるシャダジャを明確にし、ラーガの特徴を表わすための旋律を自由なテンポで、 意味をなさない音節を用いて歌い始める。
　この部分がアーラープと呼ばれる部分で、曲のイメージを決定づけるものである。 次に太鼓伴奏者にテンポとメロディーラインのどの部分にリズムサイクルの第一アクセントが重なるかを示し、歌い始める。
　作曲されたメインテーマを歌い終わると、ラーガは演奏者の自由な発想により展開を続ける。 一般的には低いオクターブから上のオクターブへ、ゆっくりしたテンポから早いテンポへと展開している。
　音楽というものはあらかじめ作られたものではなく、生きたコミュニケーションとして成り立っているものであるから、 聴衆もそれぞれのフレーズに瞬間に現れる音楽家の魂を聞き逃さないように注意を傾ける。 このような性格であるからインド音楽は本来室内楽の傾向が強いものである。 また演奏家と聴衆の瞬間におけるコミュニケーションという点が西洋音楽と異なる点である。
　インド音楽の中には幾つかのスタイルの特徴ある流れがあり、これをガラナ（gharana）と呼ぶ。 ガラナは言語的な意味では「家族」と訳されるが、音楽的には流派と訳されるべきであろう。 優れた音楽家達はそのガラナの成立に関してきわめて明確な働きを行なっている。
　師匠から弟子に対する音楽の伝承はインド音楽の中では重要なポイントである。 「心から心へ」という言葉がこのテーマに関して一般的に使用されるフレーズである。 ウスタード（優れた師）は弟子に対して自分の音楽を伝承する時、弟子の音楽的要素を通じて彼の全生涯のことまでも考慮する。 自分の弟子がどのくらいの才能があり、どのくらいの可能性があるかをまず判断し、 それに合格した場合、弟子は初めて教えを乞うことができる。それもたいていの場合、口述であり内外不出のものとして.....。 しかも普通には自分の息子や甥ぐらいのものであり、たまにはその素質を十分に持った者も加えられることもあるが、 部外者がその教えを乞う機会を与えられるのはきわめて稀である。
　自分よりも優れた者に対する敬意や謙虚さは、音楽の分野に足を踏み入れようとする者にとって必要な過程であると伝統は言う。 インド音楽家への最高の賛辞はユニークだと言われることよりも、正しい伝統、正しい修行をしたと言われることの方である。
　インド音楽の特記すべき事の一つは、激しい修行の後に来る精神と技術の自由さである。 ラーガの制約、時の確認、創作の意図、リズムの設定、表現方法と学ぶ者には様々な課題が残されている。 それを克服した後、永く受け継がれてあたためられてきたものの中に本当の精神の存在を確認できるであろう。
　主観的なものも客観的なものも、演奏側も聴衆側も、音楽を通して何がその根底にあるのかということをもう一度考え、 そこから始まるものの存在を認識することも必要ではないだろうか。

　インドの伝統的な音楽は即興性が強く、特にシタールという弦楽器の演奏には練習用の楽譜はあっても、 タイトルが付けられ、作曲者の指示がきちんと書かれた楽譜というものがありません。 演奏の前に決められるものは「朝の曲」「昼の曲」「夜の曲」「季節の曲」と言う いわば音楽のテーマだけです。奏者はテーマを選び、喧噪に臨むわけですが、 それもあらかじめ自分の心に描いた演奏になるとは限りません。 例えば演奏会の始まるその時に雨が降り出すとか、天候の変化があれば、人の気持ちも変化します。 そうするとテーマそのものも変わるし、またその日、その時、自分の心が落ち込んでいると、 演奏にまったく抑揚もなく、音も無機的になってしまいます。 決められた時間内でさっさと終わらせてしまう時もあります。 体の調子がよく、楽しい雰囲気が自分を包み込んでいれば、曲もどんどん膨らんで、 演奏会の限られた時間をはるかにオーバーしても、まだ演っているということもあるわけです。
　そういう意味で、演奏は真剣勝負。同じ演奏は二度とありません。 楽譜に書かれたものを一生懸命練習し、こなしていく西洋的な考えとは基本的に違い、 いかにもインド的というか、東洋的というか、私がこの世界に飛び込んだのも、 こうしたインドの音楽表現に強く魅力を感じたからです。
　シタールは自然の素材をそのままに生かす楽器で、 電気など近代文明の要素を取り入れることもありません。 自分の指に伝えられた感覚をそのままストレートに音として表現していく、いわば素朴な楽器。 それだけにこの楽器づくりには難しいものがあります。 ひとつひとつ手づくりですから、同じシタールは二つとありません。
　私が使っているシタールの中にも、職人に注文して2年がかりで完成したものがあります。 それでも満足できるものではありませんでした。 インドにはこの楽器の演奏者で権威といわれる人たちが何人かおり、職人の最高傑作ともなると、 その演奏者たちに無料で寄贈される場合が多く、 権威に使ってもらうことが職人の大きな名誉になるんですね。 だからたとえいくらお金を払っても、満足のいくシタールを得ることはなかなかできません。
　ところで、このシタールというインド特有の民族楽器ですが、インドの楽器の中では比較的新しく、 13世紀くらいに回教徒によって伝えられたもの。 もともとはイランの弦楽器で「セ・タール」つまり3本弦の楽器でしたが、 イランではあまり発展せず、インドに来て改良され、演奏弦も7本に増え、 11〜13本の共鳴弦をつけるなど、今日のような形になりました。 ピアノやヴァイオリンと同じように、これ以上改良の余地のないほど完成度の高い楽器です。
　材料は弦が金属製、胴は「ウラ」という木が使われ、 棹はミャンマーのチーク材が最高とされています。
　材料の木は切り出してすぐに使えるわけではありません。 雨季と乾季を繰り返すインドの気候の中を10年くらいおいて乾燥させ、 木目を引き締めたものが材料になります。
　私はこのシタールのほかにエスラジという楽器を演奏しています。 エスラジはシタールのような弾奏ではなく、弓奏の弦楽器。もともとベンガル地方の民族音楽の伴奏用の 楽器でポピュラーなものではありませんでしたが、今から50年くらい前に偉大な演奏家が現れ、 以来インドの古典楽器として評価されるようになりました。
　私は1973年にインドに渡り、国立ヴィシュヴァ・バラティ大学で音楽を学びました。 日本の大学にある第2外国語の専攻と同じように、シタールのほかにもうひとつの楽器を選ぶ必要に迫られ、 エスラジを選択したわけですが、勉強するうちにこのエスラジもすごく気に入ってしまいました。 日本人の感性には弓奏が合うらしく、演奏会ではエスラジの演奏の方が人気があるようです。
　師匠についてこれらの楽器を勉強したわけですが、始めのうちは「3年くらいで何とかなる」と 思っていました。 しかしその3年が過ぎて自分が感じたことは「やっとスタートラインに立てた」ということ。
　インド音楽の広さ、深さ...、それに気付くのに3年かかったといってもいいでしょう。 1年、2年とビザを更新し、結局10年間もインドに滞在することになりましたが、 その10年とて、これで極めたというものでは到底ありません。 インド音楽の、特に即興という部分には完成というものはないでしょう。 これからも目には見えない完成に一歩でも近づくよう、演奏していくつもりです。